「前原雄大さんの訃報を聞いて、もっと詳しく知りたい」 「Mリーグで見た前原さんは、どんな経歴を持つ人だったのだろう」 「地獄の門番と呼ばれた伝説の雀士について、ちゃんと知っておきたい」
そう思ってこの記事にたどり着いたあなたへ。
2025年10月12日、日本麻雀界のレジェンド・前原雄大さんが68歳で逝去されました。訃報を受けて前原雄大の経歴を調べている方、Mリーグでの「がらくたポーズ」が印象に残っている方、あるいは麻雀を始めたばかりで前原さんのことを初めて知った方もいらっしゃるでしょう。
この記事では、前原雄大の経歴を時系列で丁寧に解説します。100名の研修生からただ1人残った奇跡のプロ入り、鳳凰位4期・永世十段位という輝かしいタイトル獲得歴、62歳でのMリーグ挑戦、佐々木寿人さんとの深い師弟関係、そして病と闘いながら最後まで卓上で戦い続けた姿まで。
この記事を読めば:
- 前原雄大の生い立ちからプロ入り、全盛期、晩年までの完全な経歴が分かります
- なぜ「地獄の門番」と呼ばれたのか、その雀風と戦術の本質が理解できます
- がらくたポーズの誕生秘話や、Mリーグでの活躍の全貌が明らかになります
- 60代で鳳凰位連覇という偉業が、私たちに何を教えてくれるのかが見えてきます
- 前原雄大という人間の哲学と生き様から、人生のヒントを得られます
麻雀を知らない方でも理解できるよう、専門用語は分かりやすく説明しています。前原雄大の経歴を通じて、一人の人間がどう生き、何を残したのか。その全てをお伝えします。
それでは、100名中1名という奇跡から始まった、前原雄大44年間の軌跡を辿っていきましょう。
2025年10月12日、日本麻雀界の巨星が堕ちました。前原雄大さん、68歳。日本プロ麻雀連盟の第一期生として約40年間にわたり麻雀界を牽引し続けた伝説の雀士が、静かにこの世を去られました。
本記事では、前原雄大の経歴を詳しく振り返りながら、その輝かしい功績と人間性に迫ります。
前原雄大の経歴|プロ入りから鳳凰位4期までの軌跡

前原雄大の経歴は、100名の研修生からただ1人残った奇跡から始まりました。1981年にプロ入りしてから、鳳凰位4期・永世十段位を獲得。特に60代での鳳凰位連覇は、年齢を超えた情熱と実力の証です。麻雀を愛し続け、常にトップを目指した44年間の軌跡がここにあります。
前原雄大のプロフィールと基本情報
前原雄大(まえはら ゆうだい)さんは、1956年12月19日に東京都府中市で生まれました。日本プロ麻雀連盟に所属し、段位は九段。常務理事という要職を務めながら、最前線で戦い続けたプロ雀士です。
基本プロフィール
- 本名:前原雄大
- 生年月日:1956年12月19日
- 出身地:東京都府中市
- 所属:日本プロ麻雀連盟(常務理事)
- 段位:九段
- 逝去:2025年10月12日(68歳)
前原雄大の経歴を語る上で欠かせないのが、数々の異名です。「地獄の門番」「歌舞伎町のモンスター」「超獣」「総帥」といった、恐ろしくも畏敬の念を込めた呼び名で親しまれてきました。ただし本人は「天国だろうが地獄だろうが、普通偉い人は門番なんかやらない」として、「地獄の門番」という異名をあまり好んでいなかったそうです。
2025年10月15日、日本プロ麻雀連盟が公式に訃報を発表。「去る10月12日 68歳にて逝去致しました。ここに生前のプロ麻雀業界における多大なる貢献を深謝すると共に謹んでご通知申し上げます」との声明が出されました。通夜および告別式は近親者のみで執り行われています。
麻雀との出会いとプロ雀士への道
前原雄大の経歴は、幼少期の小さな偶然から始まります。
ある日、母親がたまたま購入してきた麻雀専門誌『近代麻雀』。これを手に取った少年時代の前原さんは、競技麻雀の世界に強い関心を抱きました。まさかこの一冊の雑誌が、日本麻雀界のレジェンドを生み出すきっかけになるとは、当時誰も想像できなかったでしょう。
興味深いことに、前原さんの母親は競技かるたの選手でした。母親が優勝した際、前原さんが「おめでとうございます」と声をかけたところ、母親は「貴方の言葉は嬉しいけれど、私は優勝するためにかるたをやっているわけではないの。そのことだけは覚えていてね」と答えたといいます。この言葉は、後に前原雄大の麻雀哲学に大きな影響を与えることになります。
転機が訪れたのは早稲田大学在学中、20歳の頃。後に日本麻雀界の重鎮となる古川孝次氏と出会ったのです。この出会いが、前原雄大をプロの世界へと導く大きな一歩となりました。
1981年3月、前原さんは結婚と同時に雀荘経営を開始。人生の新たなステージが幕を開けます。同じ年、日本プロ麻雀連盟が設立され、複数の関係者から入会の誘いを受けました。しかし前原さんは「自分が麻雀プロに向いていない」と考え、当初はこれを断っています。
ところが1981年9月、日本プロ麻雀連盟に研修生制度が創設されることに。研修初日、前原さんは再び声をかけられ、参加を決意しました。ここから3年間の研修生生活が始まります。
驚くべきことに、約100名いた第一期研修生の中で、3年間の厳しい研修を経て残ったのは前原雄大さんただ一人でした。この事実こそが、彼の才能と忍耐力を何よりも雄弁に物語っています。
前原雄大の主な獲得タイトルと成績
前原雄大の経歴において、最も輝かしいのが数々のタイトル獲得です。
鳳凰位(4期獲得)
日本プロ麻雀連盟の最高峰タイトルである鳳凰位を、前原さんは計4回獲得しています。
- 第12期(1995年):39歳で初の鳳凰位を獲得。トップ雀士の仲間入りを果たしました。
- 第25期(2008年):52歳で2度目の鳳凰位。13年ぶりの栄冠でした。
- 第33期(2017年):なんと61歳での鳳凰位獲得。60代での獲得は極めて異例です。
- 第34期(2018年):62歳で連覇達成。この年齢での連覇は前人未到の偉業といえます。
永世十段位(十段位5期獲得)
前原さんは十段位を計5回獲得し、「永世十段位」の称号を手にしています。
- 第14期、第15期、第24期、第25期、第26期と獲得
- 2007年から2009年にかけては3連覇を達成
その他のタイトル
- モンド王座(第8回)
特に注目すべきは、60代での鳳凰位連覇という偉業。多くの雀士が引退を考える年齢で、前原雄大はむしろ最盛期を迎えていたのです。年齢を言い訳にせず、常に第一線で戦い続けた姿勢は、多くの人々に勇気を与えました。
前原雄大の経歴は、単なるタイトル獲得の記録ではありません。それは「年齢は限界ではない」「情熱があれば何歳でも輝ける」というメッセージそのものなのです。
前原雄大の経歴年表【一目で分かる】
前原雄大の経歴を時系列で整理すると、その波乱万丈な人生が浮かび上がってきます。
年 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1956年12月19日 | 0歳 | 東京都府中市で誕生 |
1976年頃 | 20歳 | 早稲田大学在学中、古川孝次と出会う |
1981年3月 | 24歳 | 結婚、雀荘経営開始 |
1981年9月 | 24歳 | 日本プロ麻雀連盟1期研修生として入会 |
1984年 | 27歳 | 研修期間を経てプロ雀士デビュー |
1989年 | 32歳 | 伊集院静氏により「雄大」の芸名をもらう |
1995年 | 39歳 | 第12期鳳凰位初獲得 |
2007-2009年 | 51-53歳 | 十段位3連覇、永世十段位に |
2008年 | 52歳 | 第25期鳳凰位獲得 |
2012年 | 56歳 | A2リーグに降格 |
2015年 | 59歳 | A1リーグに再昇格 |
2017年 | 61歳 | 第33期鳳凰位獲得 |
2018年 | 62歳 | 第34期鳳凰位連覇 |
2018年 | 62歳 | Mリーグ初年度ドラフトで3位指名 |
2021年6月 | 64歳 | KONAMI麻雀格闘倶楽部を卒業 |
2025年9月 | 68歳 | 体調不良により全タイトル戦辞退 |
2025年10月12日 | 68歳 | 逝去 |
この年表を見ると、前原雄大の経歴には大きな特徴があることが分かります。56歳でA2リーグに降格するという挫折を経験しながらも、59歳で再昇格。そして60代で鳳凰位を連覇するという奇跡的な復活劇を成し遂げているのです。
挫折と復活、そして最後まで戦い続けた姿。これこそが前原雄大という雀士の本質を表しています。
伊集院静との出会いが変えた人生観
前原雄大の経歴を語る上で、作家の伊集院静氏との交流は欠かせません。この出会いが、前原さんの人生観を大きく変えたのです。
若い頃の前原さんは、非常に攻撃的な性格だったといいます。勝負の世界で生きる者として、常に闘争心をむき出しにしていました。しかし麻雀を通じて伊集院静氏と交流するようになり、人生の大切な教えを受けることになります。
伊集院氏から贈られた言葉、それは「男は舐められて一人前」。
この言葉を聞いた時、前原さんの中で何かが変わりました。常に強く、常に勝たなければならないという強迫観念から解放されたのです。それ以降、攻撃的だった性格が一変し、温厚で社交的な性格へと変化していきました。
1989年、月刊プロ麻雀編集部からエッセイ「勝手にしやがれ」の連載を依頼された時のこと。前原さんは伊集院氏に相談し、ペンネームとして「雄大」という芸名を付けてもらいました。大きく寛大な心を持つ男性という意味が込められているのでしょう。
エッセイ「勝手にしやがれ」は、前原さんの率直な人柄と独自の麻雀観が表れた内容で、多くの読者から支持を集めました。技術論だけでなく、人生哲学や麻雀に対する姿勢が語られており、今でも多くのファンに読み継がれています。
伊集院静氏との出会いがなければ、今日知られる「温厚で後輩思いの前原雄大」は生まれなかったかもしれません。強さの中に優しさを持つ。その人間性こそが、前原雄大が多くの人々から慕われた理由なのです。
前原雄大の経歴|Mリーグ時代と最後の闘い
前原雄大の経歴の最終章は、62歳でのMリーグ挑戦から始まりました。持病を抱えながら3シーズン戦い続け、「がらくたポーズ」でMリーグ文化を創造。2021年の卒業後も麻雀を愛し続け、68歳でA1リーグ首位を走りました。酸素ボンベをつけながらも最後の対局で大勝を収めた姿は、雀士の誇りそのものです。
Mリーグでの前原雄大の成績と活躍
前原雄大の経歴において、新たな章が始まったのは2018年。この年、プロ麻雀リーグ「Mリーグ」が華々しく発足しました。
2018年のドラフト会議。KONAMI麻雀格闘倶楽部は3巡目で前原雄大を指名します。当時62歳。Mリーグ参加選手の中で唯一の「孫持ちMリーガー」として大きな話題となりました。
多くの人は疑問に思ったでしょう。なぜこの年齢で、新しい挑戦を?
しかし前原さんには明確な理由がありました。それは、後輩である佐々木寿人さんと共に戦いたいという思いです。実は当時、前原さんは持病の椎間板ヘルニアと狭窄症に苦しんでいました。それでもなお、最高峰のリーグで戦うことを選んだのです。
Mリーグでの活動記録
- 2018シーズン:初年度からレギュラーとして出場
- 2019シーズン:個人3連勝で個人首位に立つ活躍
- 2020シーズン:セミファイナルに進出
前原さんはチームの精神的支柱として、KONAMI麻雀格闘倶楽部の創成期を支えました。経験豊富なベテランとして、若手選手に的確なアドバイスを送り続けたのです。
2021年6月、前原さんはKONAMI麻雀格闘倶楽部を卒業。Twitterでは「この度、私、前原雄大はMリーグKONAMI麻雀格闘倶楽部を卒業する事となりました。思い残す事は何もありません。応援して下さった方々には、心より感謝致します。ありがとうございました」とメッセージを残しています。
3シーズンにわたる挑戦。前原雄大の経歴に、また新たな輝かしい1ページが刻まれました。
前原雄大と佐々木寿人の師弟関係
前原雄大の経歴を語る上で、佐々木寿人さんとの関係は特別な意味を持ちます。
二人の出会いは、歌舞伎町の雀荘でした。当時雀荘で働いていた佐々木さんは、麻雀雑誌で前原さんの文章を読み、「この人の文章、面白いな」と感じていたそうです。
ある日、前原さんが客として店を訪れました。紹介されて一緒に打つようになると、佐々木さんは前原さんの麻雀に魅了されていきます。他の麻雀プロが打つ綺麗な競技麻雀とは違い、赤ありの東風戦で確実に勝つ、前原さんの「良い意味での汚い麻雀」に心を奪われたのです。
前原さんは佐々木さんを自身の勉強会に誘い、一緒に麻雀を打つ仲に。そして「プロになってみないか」と声をかけました。この誘いが、現在「魔王」として知られる佐々木寿人プロの誕生につながります。
2006年、佐々木さんは日本プロ麻雀連盟に22期生として入会。その後、鳳凰位を3度獲得する実力派プロに成長しました。
二人は公私ともに深い絆で結ばれ、「チームがらくた」を結成。前原さんが総帥、佐々木さんが部長という関係です。
2015年、「チームがらくた」のトークイベントで、彼らはがらくた三箇条を発表しました。
- 「鳴いたらオリるな」
- 「愚形上等」
- 「放銃万歳」
一見無謀に見えるこの三箇条。しかし前原さんは「私のリーチ、がらくたとか言われるけど、かなり精度は高いんですよ」と語っています。実は緻密な計算に基づいた攻撃的戦術なのです。
師弟でありながら、戦友であり、親友。前原雄大と佐々木寿人の関係は、麻雀界でも稀に見る深い絆でした。
「がらくたポーズ」が生んだMリーグ文化
前原雄大の経歴の中でも、特に記憶に残るのが「がらくたポーズ」の誕生です。
2019年10月22日。Mリーグ2019シーズン第14節第1回戦での出来事でした。対局に勝利した前原さんは、突然天に向かって人差し指と中指を立て、斜め前に手を掲げるポーズを披露したのです。
麻雀界は騒然となりました。
麻雀では、相手を煽る行為は一般的にマナー違反とされています。Mリーグの公式ルールでも「過度なため息やぼやきなど、相手を惑わす可能性がある言動が度重なる場合」はイエローカードの対象。勝利ポーズの是非について、麻雀界で大きな議論が巻き起こりました。
賛否両論が渦巻く中、Mリーグの園田賢さんは「個人的な意見としてはあり」と肯定的なコメント。このポーズは漫画『北斗の拳』に登場するラオウのポーズに似ていることから、「ラオウポーズ」とも呼ばれるようになります。
そして2019年11月11日。今度はチームメートの佐々木寿人さんが、同じポーズを行いました。師匠である前原さんのポーズを弟子が継承したこの瞬間、Twitterでは大きな話題に。
人差し指と中指を立てて手を斜め前に掲げる「がらくたポーズ」。これは元々「チームがらくた」のポーズでしたが、後にKONAMI麻雀格闘倶楽部の決めポーズとして正式に採用されました。
当初は賛否両論だったこのパフォーマンス。しかし今では、Mリーグにおける勝利ポーズ文化の先駆けとして認識されています。現在、多くのMリーガーが独自の勝利ポーズを持っており、それがMリーグのエンターテインメント性を高める要素となっているのです。
前原雄大の経歴は、単なる麻雀の技術だけでなく、Mリーグという新しい文化の創造にも貢献したのです。
「地獄の門番」前原雄大の雀風と戦術
前原雄大の経歴を語る上で、その独特な雀風は欠かせません。
前原さんの麻雀スタイルは、一言で表すなら超攻撃型。フリー雀荘での圧倒的な存在感から、「歌舞伎町のモンスター」「超獣」「地獄の門番」といった恐ろしい異名が付けられました。
ただし前述の通り、本人は「地獄の門番」という呼び名をあまり好んでいませんでした。「天国だろうが地獄だろうが、普通偉い人は門番なんかやらない」という理由からです。この返しにも、前原さんのユーモアと人間性が表れています。
「がらくたリーチ」の真髄
前原さんの代名詞ともいえるのが「がらくたリーチ」。ドラも役もなく、ペンチャン(辺張)やカンチャン(嵌張)といういわゆる「愚形」でリーチをかける戦術です。
この「がらくたリーチ」という名前を付けたのは、日本プロ麻雀連盟会長の森山茂和さん。一見すると無謀に見えるこのリーチですが、前原さんは「私のリーチ、がらくたとか言われるけど、かなり精度は高いんですよ」と語っています。
実は緻密な計算と経験に基づいた戦術なのです。相手の手牌を読み、場の状況を判断し、確率を計算した上でのリーチ。それが「がらくたリーチ」の本質でした。
「何が何でもトップを取る」という信念
前原さんは著書『麻雀 何が何でもトップを取る技術』『前原雄大の勝ってこそ麻雀』を出版しています。タイトルからも分かる通り、前原さんの麻雀哲学は明確でした。
それは「トップを取ること」。
2位や3位で満足せず、常にトップを目指す。鳴きやリーチを駆使して主導権を取り、相手を圧倒する。前原雄大の経歴が示すのは、この一貫した姿勢です。
興味深いのは、母親から受け継いだ「勝つために麻雀をやっているわけではない」という哲学と、「何が何でもトップを取る」という信念が矛盾していないこと。前原さんにとって麻雀は、勝敗を超えた何か大きなもの。それでいて、卓に座れば全力でトップを目指す。この二面性こそが、前原雄大という雀士の魅力でした。
病気と闘いながら貫いた雀士魂
前原雄大の経歴の最終章は、壮絶な闘病との戦いでした。
実は前原さん、Mリーグ初年度から満身創痍だったといいます。持病の椎間板ヘルニアに加え、脊柱管狭窄症を患っていました。この病気により、歩行が困難になるほどの痛みに苦しんでいたのです。
後に前原さん本人が明かしたところによると、「100m歩くのに10分もかかった」時期があったとのこと。この状態でMリーグに参加するのは、常人では考えられない決断です。
それでも前原さんがMリーグ参加を決意したのは、佐々木寿人さんと共に戦いたいという思いからでした。盟友である佐々木さんにさえ、自身の苦しみを明かさなかったといいます。
2021年のMリーグ卒業後も、前原さんは雀士として戦い続けました。しかし体調不良は悪化していきます。
そんな中でも、前原さんは驚異的な復活を見せました。一時はB1リーグまで降格したものの、再びA1リーグへの復帰を果たしたのです。2025年、68歳でA1リーグに復帰し、なんとトータル首位を走る活躍を見せました。
しかし同年9月、体調不良のためA1リーグの出場辞退を発表。周囲への影響を考慮し、全タイトル戦から身を引くことを決断しました。
放送では、酸素ボンベを使用しながら対局する前原さんの姿が映し出されていました。それでも対局を続ける姿に、多くのファンが胸を打たれたといいます。
2025年9月27日。達人戦の第7節一回戦が、前原雄大の最後の公式対局となりました。この試合で前原さんは、72,100点という圧倒的な大勝を収めています。
最後の最後まで、トップを取るという信念を貫いた。これこそが前原雄大という雀士の生き様でした。
そして2025年10月12日、前原雄大さんは68年の生涯を閉じられました。
【オリジナル切り口】100名中1名の奇跡|前原雄大が教えてくれたこと
前原雄大の経歴を振り返る時、私たちは一つの数字に立ち返るべきでしょう。
100名中1名。
1981年、日本プロ麻雀連盟の第一期研修生として約100名が集まりました。誰もが夢と希望を持ち、プロ雀士を目指していたはずです。しかし3年間の厳しい研修を経て残ったのは、前原雄大さんただ一人でした。
99名が去った道。たった1名が残った道。
この事実が持つ重みは計り知れません。才能だけでは残れない。努力だけでも残れない。才能と努力、そして何よりも「続ける力」があって初めて残れる世界。それがプロの世界です。
母親から受け継いだ哲学
前原さんの母親が語った言葉を思い出しましょう。「私は優勝するためにかるたをやっているわけではないの」。
この言葉を胸に、前原さんも鳳凰位を二度目に獲得した後、こう語っています。「鳳凰は大切なものだと思っている。ただ、鳳凰を獲る為に麻雀をやっているわけではない」。
タイトルは目的ではなく、結果。大切なのは麻雀そのものを愛し、向き合い続けること。前原雄大の経歴が教えてくれるのは、この純粋な姿勢です。
60代での鳳凰位連覇が示したもの
多くの人が「もう年だから」と諦める年齢。しかし前原さんは61歳、62歳で鳳凰位を連覇しました。
年齢は言い訳にならない。情熱があれば、努力を続ければ、何歳でも頂点に立てる。前原雄大の経歴は、この事実を証明しています。
最後まで卓上で戦い続けた姿勢
椎間板ヘルニア、脊柱管狭窄症、骨折。満身創痍の体で、酸素ボンベをつけながら対局を続けた前原さん。
なぜそこまでして戦い続けたのか。
それは麻雀を愛していたから。仲間と共に戦いたかったから。そして、雀士としての誇りを最後まで貫きたかったから。
最後の対局での72,100点という大勝。これは前原さんからの最後のメッセージだったのかもしれません。「私は最後まで戦う。これが雀士の生き方だ」と。
後進育成と麻雀界への貢献
前原さんは佐々木寿人さんをはじめ、多くの後輩をプロの世界に導きました。日本プロ麻雀連盟の常務理事として、麻雀界の発展に尽力し続けました。
技術を教えるだけではない。麻雀に対する姿勢、プロとしての矜持、人としての在り方。前原さんが後輩たちに伝えたのは、こうした目に見えない大切なものでした。
前原雄大の経歴が現代の私たちに伝えるメッセージ
前原雄大の経歴を通じて、私たちは多くのことを学べます。
- 100名中1名しか残れない世界で生き残るには、才能だけでなく「続ける力」が必要だということ
- 年齢は限界ではなく、情熱があれば何歳でも輝けるということ
- 勝つことは大切だが、それ以上に大切なのは「なぜそれをやるのか」という純粋な動機
- 病気や困難に直面しても、信念を貫けば道は開けるということ
- 技術だけでなく、人間性が人を惹きつけるということ
前原雄大さんは逝去されましたが、その経歴と生き様は、これからも多くの人々の心に生き続けるでしょう。
前原雄大の経歴まとめ|レジェンドが残した軌跡
前原雄大の経歴を振り返り、その生涯で成し遂げた功績を以下にまとめます。
プロ入りから鳳凰位4期までの軌跡
- 100名中1名の奇跡:1981年の第一期研修生約100名から、3年間の研修を経て残ったのは前原雄大ただ一人という驚異的な事実
- 鳳凰位4期獲得:1995年(39歳)、2008年(52歳)、2017年(61歳)、2018年(62歳)と計4回獲得し、特に60代での連覇は前人未到の偉業
- 永世十段位の称号:十段位を5期獲得し、2007-2009年には3連覇を達成して永世十段位に
- 44年間の現役生活:1981年のプロ入りから2025年まで、常に第一線で戦い続けた不屈の精神
- 伊集院静氏との交流:「男は舐められて一人前」という教えにより、攻撃的な性格から温厚な性格へ変化し、「雄大」という芸名をもらう
Mリーグ時代と最後の闘い
- 62歳でのMリーグ挑戦:2018年、KONAMI麻雀格闘倶楽部から3位指名を受け、唯一の「孫持ちMリーガー」として3シーズン活躍
- 佐々木寿人との師弟関係:弟子をプロの世界に誘い、「チームがらくた」を結成。公私ともに深い絆で結ばれた
- がらくたポーズの創造:2019年に披露した勝利ポーズが賛否両論を呼びながらも、Mリーグの勝利パフォーマンス文化の先駆けとなる
- 超攻撃型の雀風:「がらくたリーチ」に代表される攻撃的な麻雀スタイルで「地獄の門番」の異名を持ち、「何が何でもトップを取る」という信念を貫く
- 病気との闘い:椎間板ヘルニアと脊柱管狭窄症を抱えながらも対局を続け、68歳でA1リーグ復帰・トータル首位を達成
- 最後の対局:2025年9月27日、酸素ボンベをつけながら臨んだ達人戦で72,100点の大勝を収め、雀士の誇りを最後まで貫いた
前原雄大が残した遺産
- 後進育成への貢献:多くの後輩をプロの世界に導き、技術だけでなく麻雀に対する姿勢や人としての在り方を伝えた
- 年齢を超えた活躍:60代での鳳凰位連覇により、「年齢は言い訳にならない」というメッセージを体現
- 麻雀哲学の継承:「勝つために麻雀をやっているわけではない」という母親の教えを受け継ぎながら、常にトップを目指す姿勢の両立
- プロとしての矜持:満身創痍でも戦い続け、最後まで卓上で大勝を収めた姿は、真のプロ雀士の生き様そのもの
前原雄大の経歴は、単なるタイトル獲得の記録ではありません。100名中1名という奇跡から始まり、44年間にわたり麻雀を愛し続けた一人の人間の物語です。挫折と復活、師弟の絆、病との闘い、そして最後まで貫いた信念。その全てが、これからも多くの人々の心に生き続けるでしょう。
2025年10月12日、前原雄大さんは68歳でこの世を去られました。しかし、その経歴と生き様は永遠に色褪せることはありません。