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南野拓実の経歴が凄すぎる!セレッソからリバプール、モナコ復活への全軌跡

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現在、フランス1部リーグのASモナコや日本代表で、目覚ましい活躍を続けている南野拓実選手。流麗なテクニックと献身的な守備、そしてここ一番での決定力を武器に、欧州の第一線で戦い続けています。しかし、その華々しい活躍の裏で、彼がどのような苦悩を抱え、いかにしてそれを乗り越えてきたのか、その詳細なプロセスをご存知でしょうか。

「リバプール時代は本当に活躍していたの?」「日本代表の10番としてどんな思いでプレーしているのか知りたい」といった疑問を持つサッカーファンの方は少なくありません。また、一度は調子を落としたと言われながらも、再びフランスの地でエースとして覚醒した「復活の理由」を深く知りたいという方も多いはずです。

この記事では、南野拓実選手の育成年代から現在に至るまでの歩みを、単なる事実の羅列ではなく、ターニングポイントとなる決定的なエピソードと共に徹底解説します。この記事を読むことで、南野選手が世界トップレベルへ上り詰めるまでの全軌跡が把握できるだけでなく、彼の成功を支える「不屈の精神」や、最新のプレイスタイル、さらには2026年ワールドカップに向けた展望までを深く理解することができます。名門リバプールで日本人として初めてプレミアリーグ優勝を経験した彼の、真の凄さに迫っていきましょう。

目次

南野拓実の原点|セレッソ大阪からザルツブルクへ

南野拓実選手のサッカーキャリアを語る上で欠かせないのが、彼の「負けず嫌い」な性格と、圧倒的な向上心です。大阪府泉佐野市に生まれた彼は、兄の影響でサッカーを始め、地元・大阪の強豪であるセレッソ大阪の育成組織でその才能を大きく開花させました。

「柿谷の後継者」として頭角を現したJリーグ時代

セレッソ大阪のU-15、U-18と順調にステップアップした南野選手は、2012年に17歳という若さでトップチームに2種登録され、Jリーグデビューを果たしました。当時のセレッソ大阪は、香川真司選手や乾貴士選手、清武弘嗣選手といった日本を代表するテクニシャンを次々と輩出しており、南野選手もその系譜を継ぐ存在として大きな期待を寄せられていました。

翌2013年には、クラブの象徴的な背番号である「13」を継承し、高卒1年目ながらJ1リーグで5得点を記録。Jリーグベストヤングプレーヤー賞を受賞するなど、一躍スターダムにのし上がります。さらに2014年には、エースであった柿谷曜一朗選手が欧州へ移籍した後、名実ともにチームの顔としての役割を担うことになりました。

しかし、2014年シーズンのセレッソ大阪は大型補強を敢行しながらも、皮肉にもJ2降格という最悪の結果を招いてしまいます。チームが苦境に立たされる中、19歳だった南野選手は、自身のさらなる成長と世界への挑戦を優先し、オーストリアの名門レッドブル・ザルツブルクへの完全移籍を決断しました。

欧州への第一歩。オーストリアで磨かれた得点感覚

2015年1月、南野選手は海を渡り、ザルツブルクの一員となりました。オーストリアリーグは欧州の中でも5大リーグへの「登竜門」として知られており、若手育成に定評のあるレッドブル・グループの環境は、南野選手にとって理想的な戦場でした。

ザルツブルクでの5年間は、まさに「ストライカー」としての能力を研ぎ澄ます期間となりました。加入当初こそ言葉や文化の壁に直面したものの、持ち前の適応能力を発揮し、コンスタントに2桁得点を記録するようになります。ここで彼は、単なるテクニシャンから、ゴール前での鋭い嗅覚と、前線からの激しいプレスを厭わない現代的なアタッカーへと進化を遂げました。

特に印象的だったのは、アーリング・ハーランド選手やファン・ヒチャン選手らと共に形成した強力な攻撃陣です。彼らと共にプレーすることで、南野選手は欧州のトップレベルで通用するスピード感と判断力を身につけました。そしてその実力を世界に知らしめる瞬間が、2019年の秋に訪れることになります。

世界を震撼させたリバプール移籍とプレミアの壁

2019-2020シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ(CL)。ザルツブルクはグループステージで、前年度王者のリバプールと同じグループに入りました。この直接対決こそが、南野選手の運命を大きく変えることになったのです。

アンフィールドでの伝説的ゴールが運命を変えた

2019年10月、敵地アンフィールドで行われたリバプール戦。ザルツブルクは0-3という劣勢から一時追いつく驚異的な粘りを見せ、最終的には3-4で敗れたものの、世界中に衝撃を与えました。この試合で南野選手は、豪快なボレーシュートでゴールを奪い、さらに1アシストを記録する八面六臂の活躍を見せたのです。

リバプールの指揮官ユルゲン・クロップ監督は、目の前で躍動する日本人アタッカーの姿に魅了されました。試合中、南野選手が決定的な仕事を果たすたびに、クロップ監督が笑顔を浮かべていたシーンは今でも語り草となっています。この活躍が決定打となり、わずか2ヶ月後の12月、リバプールへの電撃移籍が発表されました。

世界一のクラブへの挑戦に日本中が沸き立ちました。プレミアリーグというフィジカルの強さとスピードが求められる環境で、南野選手がどこまで通用するのか。アンフィールドの住人となった彼は、新たな歴史を作るべくイギリスへと旅立ちました。

激しい定位置争いとサウサンプトンへのレンタル移籍

リバプールでの生活は、想像以上に過酷なものでした。当時の攻撃陣には、モハメド・サラー、サディオ・マネ、ロベルト・フィルミーノという「世界最強の3トップ」が君臨しており、バックアップにもディオゴ・ジョタらの実力者が揃っていました。南野選手は限られた出場時間の中で結果を求められる、極めて難しい立場に置かれます。

2020-2021シーズンの途中には、出場機会を求めてサウサンプトンへ期限付き移籍を経験します。デビュー戦ですぐさまゴールを決めるなど、ポテンシャルの高さは見せたものの、リバプールへ復帰した後も絶対的なレギュラーを確保するには至りませんでした。

それでも南野選手は腐ることなく準備を続け、2021-2022シーズンには国内カップ戦(カラバオカップ、FAカップ)でチーム得点王となる活躍を見せ、リバプールの2冠獲得に大きく貢献しました。リーグ戦での出場機会は少なかったものの、彼が残した貢献とプロフェッショナルな態度は、チームメイトや現地サポーターから高く評価され、日本人として3人目、リバプールでは初のプレミアリーグ優勝メダルを手にするという快挙を成し遂げました。

復活のASモナコ|再び輝きを取り戻した「日本のエース」

リバプールで最高レベルの経験を積んだ南野選手は、次なる挑戦の舞台としてフランスのASモナコを選択しました。2022年夏の移籍は、さらなる成長を求める彼にとっての大きな決断でしたが、新天地での船出も決して容易なものではありませんでした。

苦しんだ1年目を経て、エースとして覚醒した理由

モナコでの1年目となった2022-2023シーズン、南野選手はフランスリーグ特有の激しいコンタクトと、当時のフィリップ・クレマン監督の戦術への適応に苦しみます。コンディションが上がらず、ベンチを温める日々が続き、「南野は終わった」という厳しい声も一部で上がっていました。しかし、彼は再び自らの力でその評価を覆します。

転機となったのは2023-24シーズン。かつてザルツブルクで共に戦ったアドルフ・ヒュッター監督が就任したことです。監督は南野選手の特性を完全に理解しており、彼を最も輝ける「シャドーストライカー(トップ下)」のポジションで起用しました。信頼を勝ち取った南野選手は、開幕からゴールとアシストを量産し、2023年8月にはリーグ・アンの月間MVPを受賞するなど驚異的な復活を遂げました。

現在では、チームの攻撃を司る司令塔としてだけでなく、果敢にゴールを狙うアタッカーとしても欠かせない存在となっています。かつてのザルツブルク時代を彷彿とさせる躍動感に、リバプールで培った勝負強さが加わり、今まさにキャリアの最盛期を迎えていると言えるでしょう。

現在のプレイスタイルと最新のスタッツ・評価

今の南野選手のプレイスタイルは、以前よりも多機能化しています。具体的には、以下の3つのポイントが彼のパフォーマンスを支えています。

  1. 神出鬼没のポジショニング:相手のディフェンスラインと中盤の間に顔を出し、攻撃の起点となる動き。
  2. 高い守備意識:リバプール時代に叩き込まれた「ゲーゲンプレス」をベースとした、前線からの鋭い寄せ。
  3. 決定的な仕事をする嗅覚:ボックス内に侵入するタイミングが絶妙で、ワンタッチでのシュート技術が向上。

フランスの現地メディアも「モナコの宝石」「日本の魔術師」と称賛を惜しまず、チーム内での評価は不動のものとなっています。スタッツ面でも、ゴール数とアシスト数の両方で高い数値を維持しており、リーグを代表する選手の一人として数えられています。

日本代表としての経歴|10番の重圧とワールドカップ

クラブでの活躍の一方で、南野選手にとって日本代表は、自身の誇りであると同時に、最も苦しい想いを経験した場所でもあります。

森保ジャパン初期の「新三銃士」ブーム

2018年、ロシアワールドカップ終了後に就任した森保一監督体制において、南野選手は中心選手としての地位を確立しました。中島翔哉選手、堂安律選手と共に「新三銃士」と呼ばれ、軽快な連携からゴールを奪うスタイルは、新生日本代表の象徴となりました。

背番号10を与えられた彼は、アジアカップなどの公式戦でも得点を重ね、文字通り日本のエースとして君臨します。しかし、チームの世代交代が進むにつれて、新たなライバルたちの台頭や、代表チームの戦術変更により、次第にその立ち位置は安泰ではなくなっていきました。

2022年W杯の悔しさと、2026年大会への想い

2022年のカタールワールドカップ。南野選手にとって念願の舞台でしたが、結果は非情なものでした。主な役割は途中出場からのジョーカーとなり、チームがドイツやスペインを破る歴史的快挙を成し遂げる中で、彼自身は消化不良の思いを抱えていたはずです。

さらに、決勝トーナメント1回戦のクロアチア戦。PK戦の1人目のキッカーを務めた南野選手でしたが、無情にもシュートは止められてしまいました。試合後の彼の表情、そして背負った責任の重さは、多くのファンの胸を打ちました。

しかし、その悔しさが彼をさらなる高みへと押し上げました。大会後、代表から一時遠ざかる時期もありましたが、モナコでの復活を経て再び代表へと復帰。現在の彼は、10番という背番号に固執することなく、チームの勝利のために自分ができる役割を模索し続けています。

2026年の北中米ワールドカップに向けて、南野選手は「今が一番サッカーを楽しめている」と語っています。ベテランの域に入りつつある彼が、若手選手に経験を伝えながら、自らの足で再び世界の舞台を切り拓く姿を、多くのファンが期待しています。

南野拓実の経歴を振り返る|挫折から栄光へのロードマップ

南野拓実選手の歩みは、常に高みを目指す「不屈の精神」に支えられていました。この記事で解説した、彼のこれまでの経歴の要点をまとめます。

  • セレッソ・ザルツブルク時代:Jリーグで若きスターとして頭角を現し、欧州挑戦を通じて「点取り屋」としての本能を研ぎ澄ました。
  • リバプール時代:世界一のクラブで激しい競争を経験し、日本人として3人目のプレミアリーグ優勝とカップ戦2冠に貢献した。
  • ASモナコ時代:フランスでの苦難を乗り越え、恩師との再会を機に攻撃の要として再覚醒。キャリア最高の充実期を迎えている。
  • 日本代表:10番の重圧とW杯での悔しさを糧に、現在は精神的な支柱としても2026年大会での飛躍を誓っている。

どんな逆境でも歩みを止めず、復活を遂げる南野選手の姿は、見る者に大きな勇気を与えてくれます。これからも進化し続ける彼の活躍から、目が離せません。

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