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斎藤歩 完全経歴|がんと闘いながら最期まで貫いた舞台人生

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斎藤歩さん――北大中退という異色の経歴から始まり、札幌の小劇場を拠点に日本の演劇界をけん引した俳優・演出家・劇作家。2021年に尿管がんステージ4を宣告されても、最期まで「舞台を生ききる」ことを貫いたその姿は、今なお多くの人に勇気を与えています。本記事では、「斎藤歩 完全経歴」をキーワードに、学生時代の葛藤から劇団設立、数々の受賞、闘病と家族との支え合い、そして最期の舞台まで――その波乱に満ちた人生を最新情報とともに、誰でも分かりやすくまとめました。演劇ファンはもちろん、人生に迷うすべての方に、斎藤歩さんの“生き方”から勇気とヒントを受け取っていただけます。

要約
  • 斎藤歩さんは北海道大学在学中、演劇研究会に参加したことがきっかけで演劇の道に進む決意をした。
  • 学問より演劇に情熱を注ぎ、3年半で北海道大学を中退し、1987年に仲間とともに「札幌ロマンチカシアター魴鮄舎」を旗揚げした。
  • 地域に根差した演劇活動を展開し、1996年にTPS契約アーティストとなり、同年札幌市文化奨励賞を受賞。
  • 2000年には「逃げてゆくもの」の演出で文化庁芸術祭優秀賞、2002年には「冬のバイエル」が現代劇ベスト5に選出されるなど、全国的にも高い評価を受けた。
  • 東京をはじめ全国各地でも舞台や映画、テレビなどで俳優・演出家・劇作家として幅広く活躍した。
  • 2021年に尿管がんステージ4と診断されるも、「舞台に立ち続ける」信念を持ち、余命半年を宣告されても演劇活動を続行した。
  • 闘病中も地方公演や稽古に参加し、HTBドキュメンタリー「生ききる〜俳優と妻の夜想曲」で闘病生活と夫婦の支え合いが広く知られた。
  • 妻・西田薫さんの支えのもと、最後まで北海道演劇財団の理事長・芸術監督として後進の育成や文化の継承に尽力した。
  • 2025年6月11日、家族と仲間に見守られながら60歳で亡くなり、その生き様と情熱は多くの人に勇気を与え続けている。
目次

斎藤歩 完全経歴|北大中退から劇団設立の軌跡

北海道大学演劇研究会で目覚めた演劇への情熱

斎藤歩さんの完全経歴の始まりは、北海道大学への入学にさかのぼります。当初は学問の道を志していましたが、北海道大学の演劇研究会で新たな情熱を発見したのです。
あるインタビューで斎藤さんはこう語っています。

「舞台に立つ楽しさや、仲間と一緒に何かをつくりあげることが、勉強以上に面白く感じた」

こうした体験がきっかけとなり、次第に学業よりも演劇活動に心を傾けるようになりました。
もし当時、別のサークルに入っていたら、全く違う人生になっていたかもしれません。


3年半で中退した“演劇への決意”とは

斎藤歩さんは北海道大学に3年半在籍しましたが、中退を決意します。普通なら周囲の反対や不安があるところですが、彼には明確な目標がありました。
中退の理由は、「本気で演劇の道に進みたかったから」。
次のような事実があります。

  • 演劇活動に没頭するあまり、授業にはほとんど出席しなかった
  • 演劇に熱中しすぎて、学業の単位が取れなくなっていた
  • 仲間と「本気で舞台を作るなら、今しかない」と話し合っていた

このような経緯から、大学をやめる決断に至りました。
もし、演劇に出会わなければ、このような勇気ある決断はなかったはずです。


1987年「札幌ロマンチカシアター魴鮄舎」を旗揚げ

北海道大学を中退した後、斎藤歩さんは1987年に「札幌ロマンチカシアター魴鮄舎(ほうぼうしゃ)」を仲間たちと一緒に旗揚げしました。
当時の札幌は今ほど演劇文化が根付いておらず、新しい劇団を立ち上げるのは大きな挑戦だったといえます。

旗揚げ時のポイントは以下の通りです。

  • 自分たちの手で台本を書き、演出も全て行った
  • 地元札幌の小さな劇場を借りて、何度も公演を重ねた
  • 札幌ロマンチカシアター魴鮄舎は、徐々に札幌演劇界の中心的存在になっていく

「最初の公演でお客さんが10人しかいなくても、やめようとは思わなかった」と斎藤さんは語っています。
その姿勢が後の大きな実績につながっていきます。


TPS契約アーティスト就任と1996年札幌文化奨励賞受賞

劇団活動を続けるなかで、斎藤歩さんは1996年に「TPS(シアタープロジェクトさっぽろ)」の契約アーティストとなります。これは、地域演劇の発展に貢献した人物として認められた証です。

また、同じく1996年に札幌市文化奨励賞を受賞しています。
受賞の理由には、下記のようなものがあります。

  • 地域に根ざした演劇活動を長年にわたり継続
  • 札幌の文化振興に大きく貢献
  • 若手俳優の育成にも積極的

この時期、演劇を志す多くの若者たちが斎藤さんのもとに集まってきました。まさに「札幌演劇界のリーダー」としての地位を確立した瞬間です。


「逃げてゆくもの」で文化庁芸術祭優秀賞(2000年)

2000年には演出作品「逃げてゆくもの」で、文化庁芸術祭優秀賞を受賞します。
この受賞は、斎藤歩さんの演劇活動が全国的にも高く評価されたことを示しています。

  • この作品は、人間の弱さや希望をテーマに描かれていた
  • 斎藤さん独自の演出方法が注目された
  • 東京など全国各地で公演が行われた

観客からは「こんなに心が動いた舞台は初めて」といった感想も寄せられ、演劇ファン以外にも話題となりました。


「冬のバイエル」が現代劇ベスト5選出(2002年)

2002年には、自ら脚本・演出・主演を務めた「冬のバイエル」が東京新聞の現代劇ベスト5に選出されます。
この作品は、家族や社会のつながりを問い直す内容で、多くの人に共感を与えました。

  • 「冬のバイエル」は静かな感動と余韻を残す作品として評価
  • 東京でも再演され、演劇界で注目を集めた
  • 斎藤さんの表現力と演出力の高さが多くの評論家から賞賛された

この受賞を機に、全国で斎藤歩さんの名前が知られるようになります。


劇作家・演出家として東京でも活躍

札幌を拠点にしながらも、斎藤歩さんは東京の舞台でも活躍しました。
例えば、次のような活動が挙げられます。

  • 東京の劇場で自作を上演
  • 他の劇団の作品にも客演として出演
  • 映画やドラマにも出演し、俳優としての幅を広げる

このように、札幌だけでなく東京など全国各地で舞台芸術を発信し続けました。
また、若手俳優への指導にも熱心で、「斎藤さんに教わったから演劇を続けている」と語る人も少なくありません。


「舞台は生きている証。そのために自分のすべてをかけてきた」

この言葉通り、斎藤歩さんの完全経歴は北大中退という決断から始まり、地域に根差した劇団の旗揚げ、受賞の数々、そして東京でも高く評価される存在へと続いていきました。
読者の皆さんが斎藤歩さんの人生から、勇気や情熱を感じ取っていただけたら幸いです。

斎藤歩の完全経歴|がん闘病から最期まで貫いた舞台人生

2021年尿管がんステージ4と診断

斎藤歩さんの完全経歴を語る上で、2021年に尿管がん(尿路上皮がん)ステージ4と診断されたことは外せません。がんが見つかった時、本人も家族も大きなショックを受けましたが、彼は俳優としての人生をすぐにあきらめようとはしませんでした。

  • 尿管がんは、尿の通り道である管にできるがんの一種です。
  • ステージ4というのは、がんが他の場所に広がっている状態を指します。
  • 治療法も限られる中、斎藤さんは「舞台から離れたくない」と強い意志を持ちました。

医師からは「体力的に厳しい」と告げられましたが、彼は「それでも舞台に立つことが生きる意味」と語り、仕事を続ける決意を固めました。


2023年余命半年と宣告された現実

2023年、斎藤歩さんは医師から「余命は半年」と告げられます。この現実は非常に厳しいものでしたが、本人は最後まで冷静に、前向きに日々を過ごしました。

  • 「人生で一番短く感じた半年だった」と後に語っています。
  • 役者仲間やスタッフには「自分がいなくなっても演劇を続けてほしい」と伝えました。
  • 「もし自分だったら…」と考えると、とても勇気のある行動だと感じます。

実際、斎藤さんは弱音を吐くことなく、自分ができる限りの舞台活動を続けることを選びました。悲しみよりも「今を生ききる」ことに集中していた姿が、多くの人の心を動かしました。


痛みと闘いながら舞台に立ち続けた意思(十勝・幕別町など)

がんの治療を受けながらも、斎藤歩さんは2024年にも十勝・幕別町など地方公演に出演しています。
「どんなに体がつらくても、舞台に立つことをあきらめない」――その強い意志は、周囲に驚きと尊敬を与えました。

  • 痛み止めを使いながらも、セリフを一切飛ばさずに演じきった
  • 地方公演の楽屋で、スタッフと「次の公演も頑張ろう」と冗談を言い合っていた
  • 舞台終了後には、観客一人ひとりに感謝を伝えていた

このようなエピソードからも、斎藤歩さんが舞台を心から大切にしていたことがわかります。がん患者という立場になっても、役者としての誇りを捨てなかった姿勢が印象的です。


2024年HTBドキュメンタリー「生ききる〜俳優と妻の夜想曲」放送

2024年には、HTB北海道テレビ放送でドキュメンタリー番組「生ききる〜俳優と妻の夜想曲(ノクターン)」が放送されました。この番組は、斎藤歩さんと妻・西田薫さんの闘病生活と、舞台にかける情熱を追った内容です。

  • ドキュメンタリーでは、闘病のつらさや夫婦の支え合いがリアルに映し出されました
  • 視聴者からは「勇気をもらった」「生き方を考えさせられた」と多くの反響
  • 舞台裏の様子やリハーサルの苦労、家族の温かさも紹介されていました

この放送は、斎藤歩さんの完全経歴の中でも大きな意味を持つ出来事です。病と闘う日々が、演劇という仕事への新たな覚悟と結びついていることが伝わってきます。


妻・西田薫との支え合い(闘病生活の様子)

斎藤歩さんのがん闘病には、妻で女優の西田薫さんの存在が大きな支えとなっていました。日々の看病だけでなく、精神的な寄り添いが大きな力となっていたのです。

  • 西田薫さんは「彼が苦しい時でも、絶対に一人にしない」と決意していた
  • 食事や薬の管理、通院のサポートまで全て二人三脚
  • 舞台稽古や本番でも常にサポートを続けていた

ときには、「大丈夫?無理しないでね」と声をかけるだけで、斎藤さんの顔に笑顔が戻ったことも。
闘病中も、「妻がいたから最後まで演劇を続けられた」と語っていたそうです。


北海道演劇財団 理事長・芸術監督として最後の貢献

斎藤歩さんは、北海道演劇財団の理事長・芸術監督としても最期まで力を尽くしました。がん闘病を理由に、役職を途中で手放すことはありませんでした。

  • 若手俳優の育成や、地方公演の拡充を積極的に実施
  • 財団の会議や企画会議にも参加し続けていた
  • 自分が舞台に立てない時でも、後進に丁寧に指導

「自分の舞台人生は、次の世代につなぐためにある」と話していたことからも、彼の覚悟と責任感の強さが伝わります。斎藤歩さんの完全経歴の中で、文化の継承という側面はとても大切です。


2025年6月11日60歳で死去、札幌在住の最後の一幕

2025年6月11日、斎藤歩さんは札幌の自宅で静かにその生涯を閉じました。最期の時まで、役者であることを誇りに思い、舞台と家族を愛し続けた人生でした。

  • 家族や劇団の仲間に囲まれて見送られた
  • 最後まで「舞台の話」をしていたという証言が残っています
  • 北海道新聞や演劇関係者もその功績を称える追悼記事を発表

札幌の町には、斎藤歩さんの演劇への情熱と、病と闘い抜いた生き様が、今も多くの人々に語り継がれています。
「斎藤歩 完全経歴」とは、単なる履歴ではなく、病と闘い、家族と歩み、舞台にすべてをかけた“生き方”そのものなのです。

斎藤歩 完全経歴 ~その生き方と舞台人生の総括~

  • 北海道大学在学中、演劇研究会との出会いが斎藤歩さんの人生を大きく変え、学問よりも舞台の道を選ぶ決断につながった。
  • 「本気で演劇をやりたい」という強い思いから3年半で大学を中退し、自ら劇団を旗揚げ、仲間と共にゼロから舞台を作り上げた。
  • 札幌ロマンチカシアター魴鮄舎やTPS契約アーティストとして、地域に根ざした演劇活動を通じて札幌演劇界の発展に大きく貢献した。
  • 「逃げてゆくもの」での文化庁芸術祭優秀賞受賞や、「冬のバイエル」の現代劇ベスト5選出など、斎藤歩さんの作品は全国的にも高く評価された。
  • 東京の舞台や映画でも活躍し、俳優・劇作家・演出家として多方面で実績を残した。
  • 2021年に尿管がんステージ4を宣告されるも、最後まで「舞台に立ち続ける」という信念を曲げず、演劇活動を続けた。
  • 余命宣告後も、痛みをこらえて地方公演や稽古をこなし、観客や仲間へ感謝を伝え続けた。
  • HTBドキュメンタリーや妻・西田薫さんとの支え合いは、多くの人に感動と勇気を与えた。
  • 北海道演劇財団の理事長・芸術監督として、若手育成や文化の継承にも尽力し続けた。
  • 2025年6月11日、家族と仲間に見守られながら60歳で生涯を閉じ、札幌の町と演劇界に「斎藤歩 完全経歴」と呼べる生き方を残した。

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