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柳裕也の経歴完全ガイド|少年時代からプロ二冠王までの軌跡

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中日ドラゴンズのエース・柳裕也投手。2021年に最優秀防御率と最多奪三振の二冠を獲得し、球界を代表する投手へと成長しました。しかし、その輝かしい経歴の裏には、12歳で父を亡くし、母と妹を支えるために野球に打ち込んできた感動的なストーリーがあります。

この記事では、柳裕也選手の経歴を少年時代からプロ入り後まで、時系列で詳しく解説していきます。

目次

柳裕也の経歴|年表で見る成長の軌跡

【結論】柳裕也選手の経歴は、12歳で父を亡くした少年が「家族を守る」という強い決意のもと、サイ・ヤング賞受賞(中学)→甲子園3度出場(横浜高校)→ベストナイン3回(明治大学)→ドラフト1位(2016年)→投手二冠王(2021年)という輝かしい実績を積み重ね、年俸1億円到達を果たした感動的な成功ストーリーです。

柳裕也選手の経歴を一目で理解できるよう、重要な出来事を年表形式でまとめました。少年時代の挫折から、プロ野球選手として大きな夢を実現するまでの道のりを見ていきましょう。

柳裕也 経歴年表

年齢出来事
1994年0歳4月22日、宮崎県都城市で誕生
2000年6歳志比田スポーツ少年団で野球を始める(小学3年)
2006年12歳父親が交通事故で他界、喪主を務める
2006年12歳小学6年で軟式野球全国大会出場
2009年15歳都城リトルシニアで中学3年時、シニア日本代表に選出
2009年15歳アメリカの少年野球全米選手権で優勝、サイ・ヤング賞受賞
2010年16歳横浜高校に越境入学
2011年17歳横浜高校2年春、第83回選抜高校野球大会出場
2011年17歳横浜高校2年夏、第93回全国高校野球選手権大会出場
2012年18歳横浜高校3年春、第84回選抜高校野球大会出場(ベスト8)
2013年19歳明治大学入学、1年春から東京六大学リーグ出場
2015年21歳明治大学3年秋、初のベストナイン受賞
2016年22歳明治大学4年、チームと大学日本代表のキャプテン就任
2016年22歳日米大学野球選手権でMVP・最優秀投手獲得
2016年22歳明治神宮野球大会優勝
2016年22歳ドラフト会議で中日・DeNAから1位指名、中日入団決定
2017年23歳プロ初登板(5月23日)、初勝利(6月18日)
2018年24歳プロ初完封達成(NPB公式戦初完封)
2019年25歳11勝を挙げ飛躍、オールスター初選出
2019年25歳8月20日、モデルの鍋谷真子さんと結婚
2019年25歳12月、第一子男児誕生
2021年27歳11勝6敗、防御率2.20、168奪三振で投手二冠王
2021年27歳ベストナイン・ゴールデングラブ賞受賞
2021年27歳年俸1億円到達
2022年28歳「柳裕也招待プロジェクト」開始(交通遺児支援)
2024年30歳初の開幕投手を務める、13試合4勝5敗
2025年31歳国内FA権取得、年俸1億1000万円

基本プロフィール

柳裕也(やなぎ ゆうや)

  • 生年月日: 1994年4月22日(31歳)
  • 出身地: 宮崎県都城市
  • 身長・体重: 180cm・85kg
  • 投打: 右投右打
  • ポジション: 投手
  • 背番号: 17
  • 所属チーム: 中日ドラゴンズ(2017年~)
  • 経歴: 都城市立大王小学校 → 都城市立小松原中学校(都城リトルシニア) → 横浜高校 → 明治大学 → 中日ドラゴンズ
  • 推定年俸: 1億1000万円(2025年)
  • 血液型: A型

柳裕也選手の経歴で特筆すべきは、12歳という若さで父親を亡くし、「家族を守る」という強い決意のもと野球に打ち込んできた点です。母子家庭で育ちながらも、常に家族への感謝を忘れず、その思いを力に変えて成長してきました。

柳裕也の経歴を時系列で徹底解説

【結論】柳裕也選手の経歴を時系列で見ると、12歳での父との約束→中学時代の世界大会優勝→横浜高校での甲子園経験→明治大学でのエース&キャプテン→2016年ドラフト1位→2021年二冠王達成という、逆境を力に変えながら一歩ずつ夢を実現していった成長の軌跡が浮かび上がります。

ここからは、柳裕也選手の経歴を時系列に沿って詳しく見ていきます。少年時代の挫折、高校・大学での成長、そしてプロ野球選手として大きな花を咲かせるまでの道のりを追っていきましょう。

少年時代の経歴と父との約束

柳裕也選手の経歴を語る上で、最も重要なのが少年時代の経験です。小学3年生で野球を始めた柳裕也選手は、順調に成長していきました。都城市の志比田スポーツ少年団に所属し、小学6年生の時には主戦投手兼四番打者として軟式野球の全国大会に出場するほどの実力を持っていたのです。

野球経験のない父・博美さんは、「野球ピッチング入門」という本を片手に、息子に野球を教えていました。家族4人で過ごす穏やかな日々。しかし、2006年、その幸せは突然終わりを告げます。

中学時代は都城リトルシニアに所属し、メキメキと力をつけていった柳裕也選手。中学3年生の時には、シニアの日本代表に選ばれるという快挙を成し遂げました。そして、アメリカで開催された少年野球全米選手権大会で優勝。最も優れた投手に贈られる「サイ・ヤング賞」を受賞したのです。

この実績により、柳裕也選手の経歴には全国の強豪校からのスカウトが殺到することになりました。

12歳で喪主を務めた衝撃体験

2006年8月21日。この日は、柳裕也選手の人生を大きく変える日となりました。運送業の仕事に就いていた父・博美さんが、交通事故でこの世を去ったのです。当時、柳裕也選手はわずか12歳でした。

父親の葬儀で、12歳の少年は喪主を務めました。そして、参列者の前でこう宣言したのです。

「お父さん、僕プロ野球選手になるよ!プロ野球選手になって家族を守ります」

母・薫さんと2歳年下の妹・幸奈さんを残して亡くなった父。男手が自分しかいない家族。12歳の少年は、この瞬間から「家族を支える」という重い責任を背負うことになりました。

小学校の監督だった原口和秀さんは、当時の柳裕也選手についてこう語っています。

「裕也は『お母さん大丈夫だよ』とお母さんを励まし続けていた。どんなにつらくても、そんなそぶりは全く見せずに明るく振る舞っていました」

父との約束を守るため、そして家族を守るため。柳裕也選手の経歴は、この強い決意から始まったのです。12歳の少年は、父親の前で「決して泣かない」と誓いました。家族が少しずつ前を向けるよう、明るく振る舞い続けたのです。

小学校卒業式の前日、柳裕也選手は母親に手紙を送りました。その手紙には、母への感謝と未来への決意が綴られていました。前を向き、歩き続ける息子から力をもらった母・薫さんは、「今度は私が支えよう」と決意を新たにしたといいます。

サイ・ヤング賞受賞の快挙

父を亡くした悲しみを乗り越え、柳裕也選手は野球に打ち込み続けました。中学では都城市立小松原中学校に通いながら、中学の野球部ではなく都城リトルシニアに所属。ここで投手としての技術を磨いていきました。

そして中学3年生の2009年、柳裕也選手の経歴に輝かしい実績が加わります。シニアの日本代表に選出されたのです。アメリカで開催された少年野球全米選手権大会に出場し、見事優勝。さらに、大会で最も優れた投手に贈られる「サイ・ヤング賞」を受賞しました。

サイ・ヤング賞とは、アメリカの野球界で最も権威ある投手賞の一つ。それを少年野球の世界大会で受賞したことは、柳裕也選手の才能が世界レベルであることを証明するものでした。

この実績により、全国の強豪校から次々とスカウトが届きました。地元・宮崎の高校はもちろん、全国の名門校が柳裕也選手を欲しがったのです。

父との約束を胸に、世界レベルの投手へと成長した柳裕也選手。次のステージとして、彼が選んだのは神奈川県の名門・横浜高校でした。

横浜高校時代の経歴と甲子園実績

柳裕也選手の経歴において、横浜高校時代は大きな転機となりました。2010年、16歳の柳裕也選手は地元・宮崎を離れ、単身で横浜へと渡ったのです。母・薫さん、妹・幸奈さん、そして祖母を地元に残しての越境入学。多くの強豪校からの誘いを断り、横浜高校を選んだ理由とは何だったのでしょうか。

横浜高校では、2年春からエースナンバー「1」を背負い、甲子園に3度出場しました。神奈川という全国屈指の激戦区で勝ち抜き、甲子園の土を踏んだ柳裕也選手。その経歴は、多くのプロ野球関係者の注目を集めることになります。

しかし、高校時代の柳裕也選手の経歴には、苦い思い出もありました。3年夏の神奈川県大会準々決勝で、後に楽天でエースとなる松井裕樹投手率いる桐光学園に敗れ、4季連続の甲子園出場を逃したのです。

それでも、横浜高校での経験は、柳裕也選手を人間的にも投手としても大きく成長させました。

松坂大輔への憧れで越境入学

なぜ柳裕也選手は、母と妹を残してまで横浜高校への進学を決めたのでしょうか。その理由は、憧れの投手・松坂大輔にありました。

1998年春夏連覇を成し遂げ、横浜高校を全国制覇に導いた松坂大輔投手。テレビで見た松坂投手の活躍に、少年時代の柳裕也選手は心を奪われました。

「かっこいい。自分もあんな投手になりたい」

さらに、柳裕也選手には明確な目標がありました。「家族で男は自分だけだから、プロでお金を稼いで家族に楽をさせたい」という思いです。そのためには、プロ野球選手を多数輩出している横浜高校で力をつけるのが最良の選択だと判断したのです。

中学3年で日本代表に選ばれ、サイ・ヤング賞を受賞した柳裕也選手。全国屈指の強豪校である横浜高校への進学を希望していましたが、母と妹を残して行くことに迷いもありました。

そんな息子の背中を、母・薫さんは笑顔で押してくれました。「プロ野球選手になることが夢なら、横浜高校に行きなさい」と。

横浜へ向かう日、柳裕也選手は母の姿が見えなくなった場所で、たった一度だけ父との約束を破りました。涙を流したのです。しかし、これが最初で最後。柳裕也選手はこの日から、再び前だけを向いて歩き始めました。

3度の甲子園出場と成績

横浜高校に入学した柳裕也選手は、1年秋からベンチ入りを果たします。そして2年生になると、念願の甲子園のマウンドに立つことになりました。

2011年春(2年生):第83回選抜高等学校野球大会

初戦の波佐見高校戦では、リリーフで登板。3回2安打6奪三振1失点と好投しましたが、チームは敗退。甲子園初登板は、悔しい結果となりました。

2011年夏(2年生):第93回全国高等学校野球選手権大会

この大会では、柳裕也選手はエースとしてチームを引っ張りました。神奈川県大会決勝では、当時1年生だった松井裕樹投手を擁する桐光学園と対戦。9回途中1失点の好投で、チームは延長10回サヨナラ勝ち。3年ぶりの甲子園出場を決めました。

甲子園本戦でも複数試合に登板しましたが、3回戦の智弁学園戦で8回まで1失点の好投も、9回に先頭打者を出した後降板。その後逆転負けを喫しました。

2012年春(3年生):第84回選抜高等学校野球大会

最上級生として臨んだセンバツ。柳裕也選手は、この大会で自身最高のパフォーマンスを見せました。

初戦の高知高校戦では、9回3安打完封。見事なピッチングでチームを勝利に導きました。2回戦の聖光学院高校戦でも、9回1失点の好投。さらに、打者としても3安打1本塁打の活躍を見せたのです。

準々決勝の関東第一高校戦では、中村祐太投手(後に巨人)と投げ合いました。8回まで2失点と好投しましたが、9回に勝ち越しを許し敗退。それでもベスト8という結果は、横浜高校の伝統を引き継ぐものでした。

甲子園通算成績

  • 出場試合:6試合
  • 投球回:42回2/3
  • 奪三振:37
  • 防御率:2.74

柳裕也選手の経歴において、この甲子園での実績は大きな財産となりました。全国の舞台で結果を残したことで、次のステージへの道が開かれたのです。

最後の夏|桐光学園戦の敗北

横浜高校での集大成となる3年夏。柳裕也選手は、この大会にエースとして臨みました。しかし、神奈川県大会準々決勝で、因縁の相手・桐光学園と再び対戦することになったのです。

投げ合う相手は、2年生ながら既に超高校級と評された松井裕樹投手。前年の夏、県大会決勝で投げ合った二人が、再び神奈川の頂点をかけて激突しました。

柳裕也選手は7回まで1失点の好投。しかし、8回2死からの3連続適時打で3点を失い降板。チームは3-4で敗れ、4季連続の甲子園出場は叶いませんでした。

試合後、恩師・渡辺元智監督が柳裕也選手にかけた言葉があります。

「お前がいたから甲子園に行けた。お前に出会えて良かった」

この言葉を聞いた柳裕也選手は、確信しました。「横浜高校に来たことが間違っていなかった」と。

甲子園だけが全てではない。横浜高校で過ごした3年間は、技術面だけでなく精神面でも柳裕也選手を大きく成長させました。厳しい練習に耐え抜いた経験、仲間と共に戦った日々。これらは全て、次のステージへの糧となったのです。

なお、2012年のプロ野球ドラフト会議では、柳裕也選手は指名候補に挙がりましたが、どの球団からも指名を受けることはありませんでした。しかし柳裕也選手は、この結果を前向きに捉えました。

「大学で4年間、もっと力をつけてからプロに行こう」

こうして、柳裕也選手の経歴に新たなページが加わります。東京六大学野球の名門・明治大学への進学です。

明治大学時代の経歴とタイトル

柳裕也選手の経歴において、明治大学時代は飛躍の時期となりました。2013年に明治大学へ進学した柳裕也選手は、1年春から東京六大学リーグ戦に出場。大学4年間で23勝8敗、338奪三振、防御率1.84という圧倒的な成績を残し、ベストナインを3回受賞しました。

さらに、4年時にはチームと大学日本代表のキャプテンを務め、リーダーシップも発揮。日米大学野球選手権大会では、MVPと最優秀投手のダブル受賞という快挙を成し遂げたのです。

高校時代に果たせなかったプロへの夢。明治大学での4年間は、その夢を実現するための重要な準備期間となりました。

1年春からリーグ戦デビュー

明治大学に入学した柳裕也選手は、すぐに頭角を現しました。1年春から東京六大学リーグ戦に出場し、即戦力として活躍したのです。

第44回明治神宮野球大会では、道都大学戦に先発登板。5回を無失点に抑える好投を見せ、大学野球でも通用することを証明しました。

しかし、1年目は試合経験を積む段階。本格的に主力投手として活躍するのは2年秋からでした。

2年秋には、3勝1敗、防御率2.21の成績でリーグ優勝に貢献。第45回明治神宮野球大会では、リリーフで3試合6回を無失点に抑え、準優勝に導きました。

特筆すべきは、2年秋の早稲田大学戦です。8回2死までノーヒットノーランを続ける快投を見せ、その制球力と変化球の切れ味を全国に知らしめました。

柳裕也選手の経歴を語る上で、この明治大学での成長は欠かせません。高校時代から培った技術に、さらに磨きをかけていったのです。

4年時キャプテンとして活躍

明治大学4年時、柳裕也選手の経歴に新たな役割が加わりました。チームのキャプテンに指名されたのです。

投手としての実力はもちろん、人間性やリーダーシップも評価されての抜擢でした。父を亡くした経験から培った精神的な強さ、仲間への思いやり。これらが、キャプテンとしての適性につながったのです。

4年春の圧巻の成績

  • 6勝1敗
  • 87奪三振(リーグトップ)
  • 防御率0.87(リーグトップ)
  • 2季連続ベストナイン

特に防御率0.87という数字は驚異的です。ほとんど点を取られることなく、10試合に登板して6勝を挙げました。勝利数、奪三振、防御率の全てでリーグトップ。この活躍により、3季ぶりのリーグ優勝に大きく貢献したのです。

キャプテンとして、柳裕也選手はチームメイトをまとめ上げました。自らマウンドで結果を出すことで、チームを勝利に導く。その姿は、明治大学野球部の伝統を引き継ぐものでした。

明治大学の先輩には、中日で活躍した星野仙一さん、巨人で大活躍した川上哲治さんなど、球界を代表する名選手が多数います。柳裕也選手も、その系譜に連なる存在となったのです。

ベストナイン3回の実績

柳裕也選手の経歴において、明治大学時代の大きな実績の一つが、ベストナインを3回受賞したことです。

ベストナイン受賞歴

  • 3年秋:初のベストナイン受賞
  • 4年春:2季連続ベストナイン
  • 4年秋:3季連続ベストナイン

3年秋は、リーグトップの60回、5勝を記録。初めてのベストナイン受賞となりました。

4年秋には、早稲田大学戦で12回20奪三振という驚異的な記録を樹立。5勝0敗、防御率1.64で、3季連続のベストナインに輝きました。

さらに、柳裕也選手はリーグ史上15人目となる通算300奪三振を達成。これは、大学4年間で投手として圧倒的な実績を残した証でした。

明治大学通算成績

  • 23勝8敗
  • 288回1/3投球
  • 338奪三振
  • 防御率1.84

この数字を見れば、柳裕也選手がいかに安定して結果を残し続けたかが分かります。7割以上の勝率、防御率1点台、そして300奪三振超え。まさに大学野球を代表する投手でした。

第47回明治神宮野球大会では、初戦の関西大学戦で5回無失点、準決勝の上武大学戦で7回無失点と好投。決勝では先発し、チームの全国制覇に貢献しました。

日米大学野球でMVP獲得

柳裕也選手の経歴の中で、特に輝かしいのが日米大学野球選手権大会での活躍です。4年時、柳裕也選手は大学日本代表に選出されました。そして、この大会でMVPと最優秀投手のダブル受賞という快挙を成し遂げたのです。

第65回全日本大学野球選手権大会では、初戦の関西国際大学戦でリリーフ登板。しかし、延長タイブレークの末に敗れました。この悔しい経験が、次の大会への原動力となります。

日米大学野球選手権大会では、2試合に先発しました。

1試合目 7回を8者連続三振を含む12奪三振無失点の快投。日本の野球界だけでなく、アメリカの野球関係者も驚かせるパフォーマンスでした。

2試合目 5回途中まで7奪三振無失点。2試合いずれも無失点という圧倒的な投球で、大会連覇に貢献したのです。

この活躍により、柳裕也選手はMVPと最優秀投手に輝きました。中学時代にアメリカでサイ・ヤング賞を受賞した柳裕也選手。再びアメリカの地で最高の評価を得たのです。

大会後、柳裕也選手は第28回ハーレムベースボールウィークの代表に合流。国際舞台での経験を重ねていきました。

明治大学での4年間、柳裕也選手は投手としての技術を磨くとともに、キャプテンとしてのリーダーシップも身につけました。この経験が、プロ野球選手としての基礎を作り上げたのです。

ドラフト会議の経歴|2球団競合

柳裕也選手の経歴において、最も感動的な瞬間の一つが2016年のドラフト会議でした。明治大学4年間で圧倒的な成績を残し、ドラフト1位候補として注目されていた柳裕也選手。しかし、有力な候補者が10人以上いる中、本当に指名されるのか。母・薫さんは、「どうか指名を」と手を合わせていたといいます。

そして運命の日。中日ドラゴンズと横浜DeNAベイスターズから1位指名を受け、抽選の結果、中日ドラゴンズが交渉権を獲得しました。父との約束から10年。22歳になった柳裕也選手は、ついにプロ野球選手への道を歩み始めたのです。

2016年ドラフト1位指名

2016年10月20日。この日は、柳裕也選手と家族にとって、人生で最も重要な日となりました。

ドラフト会議の前日、柳裕也選手は父の墓前を訪れました。12歳の時に誓った約束。「プロ野球選手になって家族を守る」という決意を、改めて報告したのです。

当日、母・薫さんはこう振り返っています。

「正直今年は本当に厳しいと思っていました。10人以上は1位指名の名前が出ている中で、こんな思いでドラフトの日を待つんだというくらい、本当に指名していただきたいという願いと、何位とかいうよりも裕也の運命が決まる日だと思っていました」

テレビ中継を見ながら、緊張で手を合わせる母。そして、運命の瞬間が訪れます。

「中日ドラゴンズ、柳裕也!」 「横浜DeNAベイスターズ、柳裕也!」

2球団競合。抽選の結果、中日ドラゴンズが交渉権を獲得しました。

母・薫さんは、その瞬間をこう語っています。

「やっぱり1人の息子としての裕也の夢がかなったという瞬間でした。うれしさもそうだけど本当にほっとしました。ここまで野球を通してどれだけの方に出会って、支えてもらって、私たちは育ててもらったなと、あの瞬間は同時に感動しました」

中日ドラゴンズ。それは、柳裕也選手が憧れた松坂大輔投手が所属していた球団でもありました。運命のめぐり合わせに、柳裕也選手は感慨深いものがあったといいます。

中日との契約金と年俸

ドラフト1位指名を受けた柳裕也選手は、中日ドラゴンズと契約交渉を行いました。

契約内容(推定)

  • 契約金:1億円
  • 出来高払い:5000万円
  • 年俸:1500万円
  • 背番号:17

背番号17。これは、中日ドラゴンズの歴代エースが背負ってきた番号ではありませんでしたが、柳裕也選手にとっては新たなスタートを切る特別な番号となりました。

契約金1億円は、12歳の時に抱いた「家族を楽にさせたい」という夢を実現する大きな一歩でした。母を支え、妹を支え、そして祖母も支える。その責任を果たす準備が整ったのです。

入団会見で、柳裕也選手は笑顔を見せながら決意を語りました。

「一足先にプロの世界に進んだ横浜高校の仲間と、再び同じ舞台で戦えることが楽しみです。先輩方に学びながら、一日でも早く一軍で活躍できる投手になりたいです」

横浜高校時代の仲間には、1学年上の乙坂智選手(DeNA)、近藤健介選手(日本ハム)がいました。同期の田原啓吾選手は巨人の育成選手に。2学年下の淺間大基選手、髙濱祐仁選手は日本ハムへ。

かつて共に甲子園を目指した仲間たちと、今度はプロの舞台で戦う。柳裕也選手の経歴に、新たな章が始まりました。

母への手紙で感動を呼ぶ

ドラフト会議の日、TBS系列で放送された『ドラフト緊急生特番2016!お母さんありがとう 夢を追う親子の壮絶人生ドキュメント』に、柳裕也選手が取り上げられました。

番組では、12歳で父を亡くし、母子家庭で育ちながらもプロ野球選手を目指してきた柳裕也選手の経歴が紹介されました。そして、母・薫さんへの感謝の手紙が読み上げられたのです。

小学校卒業式の前日に書いた手紙。中学3年で日本代表に選ばれた時の報告。横浜高校への進学を決意した時の思い。明治大学でキャプテンを務めた日々。

その全てに、母の支えがありました。

柳裕也選手のグローブには、「母への恩返し」という文字が刻まれています。この言葉こそが、柳裕也選手の野球人生を支える原動力だったのです。

番組を見た視聴者からは、感動の声が多数寄せられました。

「12歳で父を亡くし、家族を支えるために野球を続けてきた姿に涙が止まらない」 「母への感謝を忘れず、夢を実現した柳選手は本当に素晴らしい」

ドラフト会議で1位指名を受け、プロ野球選手への道を歩み始めた柳裕也選手。その経歴の裏には、母と共に乗り越えてきた数々の困難がありました。そして、その全てが彼を強くしたのです。

中日時代の経歴と二冠王達成

柳裕也選手の経歴において、中日ドラゴンズでの活躍は目覚ましいものがあります。2017年のプロ入り後、着実に成長を続け、2021年には最優秀防御率と最多奪三振の投手二冠王に輝きました。年俸も1億円に到達し、名実ともに球界を代表する投手へと成長したのです。

しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。プロ1年目は思うような結果を残せず、苦しい時期もありました。それでも、父との約束を胸に、常に前を向いて努力を続けてきた柳裕也選手。その姿勢が、大きな成功へとつながったのです。

プロ入り後の成績推移

2017年、23歳でプロデビューを果たした柳裕也選手。しかし、プロの壁は高く、1年目は苦しいシーズンとなりました。

2017年(1年目)

  • 初登板:5月23日 対横浜DeNA戦(横浜スタジアム)
  • 初勝利:6月18日 対西武戦(ナゴヤドーム)
  • 成績:11試合登板、1勝2敗、防御率4.82

プロの舞台で結果を出すことの難しさを痛感したルーキーイヤー。明治大学時代に培った技術だけでは通用しないことを、身をもって体験しました。

しかし、柳裕也選手は諦めませんでした。オフシーズンには体づくりに励み、投球フォームの改善にも取り組んだのです。

2018年(2年目)

  • 4月10日、対ヤクルト戦でプロ初完封達成
  • この完封は2018年NPB公式戦初の完封
  • 中日の投手が「セ・パ両リーグ完封一番乗り」を達成したのは1993年の郭源治以来25年ぶり
  • 成績:15試合登板、3勝7敗、防御率3.66

プロ初完封を達成し、成長の手応えを感じた2年目。しかし、まだ安定した成績を残すには至りませんでした。

2019年(3年目)

  • シーズン11勝を挙げ、飛躍の年に
  • オールスターゲームに初選出
  • 同期入団の京田陽太選手と共に球宴出場
  • 成績:26試合登板、11勝9敗、防御率3.85

この年、柳裕也選手の経歴に大きな変化がありました。8月20日、モデルの鍋谷真子さんと結婚したのです。この日は、父・博美さんの命日でもありました。結婚記念日を父の命日に設定したのは、「父と一緒に前に進む」という思いからでした。

プロポーズでは、名古屋市内のホテルでディナーを楽しんだ後、「結婚してください!」とストレートに思いを伝えました。108本のバラを贈り、準備した手紙を読み上げ、これまでの思い出と将来について語ったといいます。

同年12月には、第一子となる男児が誕生。家族を持ったことで、さらに野球への責任感が増していきました。

2020年(4年目)

  • 成績:16試合登板、8勝7敗、防御率3.53

着実に力をつけていった柳裕也選手。そして2021年、ついに大きな花が咲くことになります。

2021年投手二冠の快挙

2021年、柳裕也選手の経歴に最も輝かしいページが加わりました。最優秀防御率と最多奪三振の投手二冠王に輝いたのです。

しかし、シーズン前のオープン戦では防御率7.88と不調でした。3月14日のヤクルト戦では6回5失点で降板。試合後、与田剛監督から厳しい言葉をかけられました。

「主力相手に逃げるような投球では、チームの士気が下がる」

柳裕也選手にとって、逃げているつもりはありませんでした。しかし、この言葉を受け入れた後、「自分は逃げていない」という思いをエネルギーに変えました。そして、先述のように投手二冠王という結果を残したのです。

2021年シーズン成績

  • 26試合登板(リーグ最多)
  • 11勝6敗
  • 防御率2.20(リーグトップ)
  • 168奪三振(リーグトップ)
  • 172投球回(リーグ最多)
  • 2完封(リーグトップ)

4月17日の広島戦では、14三振を奪いシーズン初勝利。6月1日の千葉ロッテ戦では、シーズン初完封を記録しました。

7月1日には、選手間投票で自身2度目となるオールスターゲームに選出。9月28日の巨人戦では、8回1失点で自身2年ぶりとなるシーズン2桁勝利を達成しました。

シーズン通算で、最優秀防御率、最多奪三振の投手二冠王となり、ベストナイン・ゴールデングラブ賞も受賞。中日の投手がベストナインを受賞したのは、2011年の吉見一起投手以来10年ぶりの快挙でした。

シーズン後、柳裕也選手は週刊ベースボールのインタビューでこう語っています。

「やっぱり勝ちたいです。その一言に尽きます。負ければ悔しいし、みんな勝つために戦っているので。優勝もそうですけど、まずは目の前の試合に勝ちたい。2冠はうれしいですけど、喜んでばかりもいられないというのが正直なところです」

常に謙虚で、さらなる高みを目指す姿勢。これこそが、柳裕也選手の強さの秘訣でした。

年俸1億円到達までの道のり

柳裕也選手の経歴において、年俸の推移も注目すべき点です。プロ入り時の1500万円から、どのように1億円に到達したのでしょうか。

年俸推移

  • 2017年:1500万円(入団時)
  • 2018年:1450万円(50万円減)
  • 2019年:2000万円(550万円増)
  • 2020年:3200万円(1200万円増)
  • 2021年:4100万円(900万円増)
  • 2022年:1億円(5900万円増)
  • 2023年:1億800万円(800万円増)
  • 2024年:1億4800万円(4000万円増)
  • 2025年:1億1000万円(3800万円減)

2021年の活躍により、オフに5900万円増の推定年俸1億円+出来高払いで契約を更改。ついに大台に到達しました。

契約更改の席で、柳裕也選手はこう語りました。

「毎年毎年キャリアハイを更新できるようにしたい。1億円という数字は通過点。さらに上を目指していきます」

最高年俸は2024年の1億4800万円。通算年俸は5億9600万円(2025年現在)に達しています。

12歳の時に抱いた「家族を楽にさせたい」という夢。プロ野球選手になって家族を守るという目標。柳裕也選手は、その約束を確実に果たしてきたのです。

父の命日に完封勝利の感動

2021年8月20日。この日は、柳裕也選手にとって特別な日でした。父・博美さんの命日であり、結婚記念日でもあるこの日、阪神タイガース戦で先発登板の機会が巡ってきたのです。

マウンドに上がった柳裕也選手の胸には、12歳の時の記憶がよみがえっていました。「お父さん、僕プロ野球選手になるよ!」と誓った日。母と妹を支えると決意した日。

この試合、柳裕也選手は9回147球で完封勝利。8勝目を挙げました。

「父に届けたい勝利」

試合後のヒーローインタビューでは、涙をこらえながら語りました。

「今日は特別な日。亡くなった父に勝利を届けられて本当に良かった。12歳の時に誓った約束を、今日改めて果たせたような気がします」

この瞬間、柳裕也選手の経歴に最も感動的なページが刻まれました。父との約束を守り、プロ野球選手として大きな成功を収めた証でした。

2022年からは、自身の経験を社会貢献に活かす「柳裕也招待プロジェクト」を開始。父親を交通事故で失った境遇から、交通遺児らを日曜日にバンテリンドーム ナゴヤで行われる試合に招待する活動を始めたのです。

2022年5月1日の広島戦後、招待者に「また見に来てくださいね」と声をかける柳裕也選手の姿がありました。自分と同じような境遇の子どもたちに、勇気と希望を与えたい。その思いが、このプロジェクトには込められています。

2024年以降の経歴

2024年には、初の開幕投手を務めました。しかし、この年は13試合の登板で4勝5敗、防御率3.76と苦戦。二軍での調整が長く続き、思うような結果を残せませんでした。

12月11日、3800万円減となる推定年俸1億1000万円で契約を更改。2025年に国内FA権を取得予定であることもあり、球団からは複数年契約を打診されましたが、単年契約を選択しました。

「今季は本来のボールのキレを取り戻し、ローテーションの座を守り抜きたい」

31歳となった2025年、柳裕也選手の経歴に新たな挑戦が始まっています。

【独自切り口】柳裕也の経歴から学ぶ|逆境を力に変える方法

柳裕也選手の経歴を振り返ると、一つの大きなテーマが浮かび上がってきます。それは、「逆境を力に変える」ということです。

12歳で父を亡くすという大きな試練。母子家庭で育つ経済的な困難。プロ入り後の苦しい時期。これらの逆境を、柳裕也選手はどのように乗り越えてきたのでしょうか。

彼の経歴から、私たちが学べる「逆境を力に変える方法」を3つのポイントにまとめてみました。

12歳の決意が人生を変えた

柳裕也選手の経歴において、最も重要な転機となったのが12歳の決意でした。父親の葬儀で「プロ野球選手になって家族を守る」と誓った瞬間。この明確な目標設定が、その後の人生を大きく変えたのです。

心理学の研究によれば、明確な目標を持つことは、困難を乗り越える上で極めて重要だとされています。目標があるからこそ、辛い練習にも耐えられる。苦しい時期も乗り越えられる。柳裕也選手の経歴は、その理論を証明するものでした。

注目すべきは、12歳という若さで人生の目標を定めたことです。多くの人は、「子どもには無理」「もっと大人になってから」と考えがちです。しかし、柳裕也選手は違いました。

父の葬儀で、多くの大人が見守る中、はっきりと目標を宣言したのです。この「言葉にする」という行為が、さらに決意を強固なものにしました。

目標を言葉にすることで、自分自身への約束となる。そして、周囲の人々も応援してくれるようになる。柳裕也選手の経歴は、「目標設定の力」を教えてくれます。

もし今、困難に直面している人がいたら、柳裕也選手のように明確な目標を設定してみてください。「〇〇になる」「〇〇を成し遂げる」と具体的に。そして、それを言葉にして誰かに伝えてみてください。

その瞬間から、あなたの人生は動き始めます。柳裕也選手の経歴が証明しているように、年齢は関係ありません。大切なのは、「決意」なのです。

母子家庭でも夢を諦めない姿勢

柳裕也選手の経歴を語る上で欠かせないのが、母子家庭という環境で育ちながらも、決して夢を諦めなかったことです。

父を亡くした後、母・薫さんは仕事から帰ると、父の分まで柳裕也選手と向き合いました。経済的な困難はあったでしょう。しかし、母は息子の夢を応援し続けたのです。

高校2年の時、社会人野球からの誘いがありました。大学に進学するよりも早く働き、家計を助けることができる。柳裕也選手は、母のことを考えて社会人野球への進路を検討しました。

しかし、母・薫さんは初めて息子の選択に反対しました。

「裕也は大学に行って4年間、自分の力を試さなければいけない」

横浜高校の指導者たちも、大学進学を勧めました。柳裕也選手のタイプなら、大学で4年間成長する方が良い。そう判断したのです。

母の思いを受け止めた柳裕也選手は、明治大学への進学を決意しました。この決断が、後のドラフト1位指名につながったのです。

ここから学べるのは、「目先の利益よりも長期的な成長を選ぶ」ということです。すぐに働いて家計を助けることもできたでしょう。しかし、4年間大学で力をつけることで、より大きな夢を実現できる。

柳裕也選手の経歴は、「投資」の大切さを教えてくれます。自分自身への投資。時間をかけて力をつけることの重要性。これは、野球だけでなく、あらゆる分野で通用する考え方です。

また、母子家庭という環境を言い訳にしなかったことも重要です。「父がいないから」「お金がないから」と諦めることは簡単です。しかし、柳裕也選手は諦めませんでした。

環境は変えられないかもしれません。しかし、その環境の中でできることを最大限やる。母と共に支え合い、少しずつ前に進む。柳裕也選手の経歴は、そんな姿勢の大切さを教えてくれるのです。

感謝を力に変える精神力

柳裕也選手の経歴で最も特徴的なのが、常に感謝の気持ちを持ち続けていることです。そして、その感謝を「力」に変えているのです。

柳裕也選手のグローブには、「母への恩返し」という文字が刻まれています。投げるたびに、この文字を見る。母への感謝を思い出す。それが、マウンドでの力になっているのです。

心理学では、「感謝の気持ちがパフォーマンスを向上させる」という研究結果が多数報告されています。感謝することで、ストレスが減り、モチベーションが上がり、集中力が高まる。柳裕也選手は、無意識のうちにこの原理を実践していたのです。

2022年から始めた「柳裕也招待プロジェクト」も、感謝を形にした活動です。自分が受けた支援や応援に対し、今度は自分が同じような境遇の子どもたちを支援する。この「恩送り」の精神が、さらに柳裕也選手を成長させています。

人は、誰かのために頑張る時、自分のためだけに頑張る時よりも大きな力を発揮できます。柳裕也選手の経歴は、その事実を証明しています。

父への感謝。母への感謝。支えてくれた全ての人への感謝。これらを忘れず、常に謙虚な姿勢を保つ。そして、その感謝を「結果」という形で返していく。

2021年の投手二冠王達成も、単なる個人の栄誉ではありません。支えてくれた全ての人への「恩返し」だったのです。

もし今、何かに行き詰まっている人がいたら、一度立ち止まって感謝の気持ちを思い出してみてください。両親への感謝、先生への感謝、友人への感謝。

その感謝の気持ちが、新たな力を与えてくれるはずです。柳裕也選手の経歴が教えてくれるように、感謝は最も強力な原動力なのです。

まとめ|柳裕也の経歴が教えてくれること

柳裕也選手の経歴を、少年時代からプロ野球選手として活躍する現在まで見てきました。12歳で父を亡くし、「家族を守る」と誓った少年が、どのようにして夢を実現していったのか。その道のりには、多くの学びがありました。

柳裕也選手の経歴まとめ

  • 少年時代: 小学6年で父を亡くし、12歳で喪主を務める。「プロ野球選手になって家族を守る」と決意
  • 中学時代: シニア日本代表に選出され、アメリカの少年野球全米選手権で優勝。サイ・ヤング賞受賞
  • 横浜高校: 松坂大輔への憧れから越境入学。甲子園3度出場、2012年春ベスト8
  • 明治大学: リーグ通算23勝8敗、338奪三振、防御率1.84。ベストナイン3回、日米大学野球でMVP
  • ドラフト: 2016年、中日・DeNAから1位指名。中日が交渉権獲得
  • プロ入り後: 2021年に投手二冠(最優秀防御率・最多奪三振)、ベストナイン・ゴールデングラブ賞受賞
  • 現在: 2025年にFA権取得、年俸1億1000万円。中日のエースとして活躍継続

柳裕也選手の経歴から学べることは、大きく3つあります。

1. 明確な目標の力 12歳の決意が、その後の人生を支え続けました。どんなに辛い時も、「家族を守る」という目標があったからこそ、前に進めたのです。

2. 感謝を忘れない謙虚さ 常に周囲への感謝を忘れず、その思いを力に変えてきました。グローブに刻まれた「母への恩返し」という言葉は、彼の原動力そのものです。

3. 逆境を成長の糧にする強さ 父の死、母子家庭、プロ入り後の苦労。これらの逆境を、決して言い訳にせず、むしろ成長の糧としてきました。

2025年以降の展望

31歳となった柳裕也選手。2025年には国内FA権を取得し、新たな岐路に立っています。中日ドラゴンズに残留するのか、新天地を求めるのか。今後の動向が注目されています。

2024年は思うような結果を残せず、年俸も減額となりました。しかし、柳裕也選手の経歴を見れば、これが終わりではないことは明らかです。逆境を乗り越えてきた彼なら、必ず復活してくれるでしょう。

12歳の時に父に誓った約束。「プロ野球選手になって家族を守る」という決意。その約束は、確実に果たされました。そして今、柳裕也選手は新たな目標に向かって歩み始めています。

柳裕也選手の経歴は、私たちに多くの勇気と希望を与えてくれます。どんな逆境も、明確な目標と感謝の心、そして諦めない姿勢があれば乗り越えられる。その事実を、彼の人生が証明しています。

これからも、柳裕也選手の活躍から目が離せません。12歳の少年が抱いた夢は、まだ終わっていないのですから。


関連情報

  • 所属:中日ドラゴンズ
  • 背番号:17
  • 投打:右投右打
  • 生年月日:1994年4月22日
  • 出身地:宮崎県都城市
  • 経歴:横浜高校→明治大学→中日ドラゴンズ(2017年~)
  • 主なタイトル:最優秀防御率(2021)、最多奪三振(2021)、ベストナイン(2021)、ゴールデングラブ賞(2021)

柳裕也の経歴|重要ポイント総括

この記事で解説した柳裕也選手の経歴について、各セクションの結論を箇条書きでまとめます。

柳裕也の経歴まとめ

  • 年表で見る経歴の全体像:12歳で父を亡くした少年が「家族を守る」という決意のもと、サイ・ヤング賞受賞(中学)→甲子園3度出場(横浜高校)→ベストナイン3回(明治大学)→ドラフト1位(2016年)→投手二冠王(2021年)という輝かしい実績を積み重ね、年俸1億円到達を果たした感動的な成功ストーリー
  • 時系列で見る経歴の流れ:12歳での父との約束→中学時代の世界大会優勝→横浜高校での甲子園経験→明治大学でのエース&キャプテン→2016年ドラフト1位→2021年二冠王達成という、逆境を力に変えながら一歩ずつ夢を実現していった成長の軌跡
  • 少年時代の経歴:12歳で父・博美さんを交通事故で亡くし喪主を務めた経験が、「プロ野球選手になって家族を守る」という明確な目標となり、中学3年でシニア日本代表としてサイ・ヤング賞を受賞するまで成長
  • 横浜高校時代の経歴:憧れの松坂大輔投手と同じ道を歩むため母と妹を残して越境入学し、2年春からエースナンバー「1」を背負い甲子園に3度出場(通算6試合、防御率2.74)、3年春のセンバツではベスト8進出
  • 明治大学時代の経歴:1年春からリーグ戦出場し、4年時にはチームと大学日本代表のキャプテンを務め、リーグ通算23勝8敗・338奪三振・防御率1.84という圧倒的成績を残し、ベストナイン3回受賞、日米大学野球選手権でMVP・最優秀投手獲得
  • ドラフト会議の経歴:2016年に中日ドラゴンズと横浜DeNAベイスターズから1位指名を受け、抽選の結果中日が交渉権獲得、契約金1億円+出来高5000万円・年俸1500万円・背番号17でプロ入り、母への手紙が感動を呼ぶ
  • 中日時代の経歴:2017年プロ入り後、2018年にNPB公式戦初完封達成、2019年に11勝&オールスター初選出、2021年に11勝6敗・防御率2.20・168奪三振で投手二冠王(最優秀防御率・最多奪三振)とベストナイン・ゴールデングラブ賞を受賞し年俸1億円到達、父の命日(8月20日)に完封勝利という感動的な偉業達成
  • 逆境を力に変える方法:12歳の明確な目標設定が人生を変え、母子家庭でも夢を諦めない姿勢を貫き、常に感謝の気持ちを持ち続けることで逆境をエネルギーに変換し、2022年からは「柳裕也招待プロジェクト」で交通遺児支援という社会貢献活動を開始

柳裕也選手の経歴が示す成功の本質

柳裕也選手の経歴を通じて分かるのは、「困難な環境こそが人を成長させる」という真理です。12歳で父を亡くすという大きな試練を、明確な目標と感謝の心、そして諦めない姿勢で乗り越え、プロ野球界を代表する投手へと成長しました。

2025年現在、31歳となった柳裕也選手はFA権を取得し、新たな岐路に立っています。しかし、これまでの経歴が証明しているように、彼の挑戦はまだ終わっていません。12歳の少年が父に誓った約束は、これからも彼を支え続けるでしょう。

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